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となりの二風谷#1
オヒョウ剥ぎ

 具合が悪い。

 日高山脈を源流に太平洋に注ぐ沙流川と逆行するように、国道237号線を海側から北上して目の前を通り過ぎていく木材運送や家畜・水産輸送のトラックを注視するでもなく、視野に入れながら一服している。

 ここに来ると、いつもこうなる。やりすぎてしまう場所なのだ。昨日の煙がまだ肺に残っている気がしてたばこも別においしくない。北海道の爽やかな晴天で、空気は当たり前のように新鮮なのに。片側一車線の国道の向こうにはアイヌの伝統家屋・チセがいくつも並び、視界の一番外側の景色は雄大な山々。こんなにも、「広大な自然」という言葉のハードルを軽く上回ってくるのに。

 北上してきて237号線をここで左に曲がれば、町立のアイヌ文化博物館や工芸館がある。右折すれば去年オープンしたばかりのアイヌ工芸の店々。その奥には萱野茂さんが建てた資料館がある。

 十中八九、二日酔いだ。体調がすこぶるすぐれない。昨夜も楽しみ過ぎた。ここに住む、筆者が惹かれている人たちと会うといつもこうなる。なのになぜか清々しいのは気のせいか陽気のせいか。

 北海道・日高地方にある平取町の、ここは二風谷(にぶたに)という小さな集落だ。

 2024年5月。また二風谷を訪れていた。26日午前6時ごろ出発し、車で2時間弱の南富良野町の道有林に向かう。何かとかこつけて顔を出しているが、今回はアイヌの伝統工芸である織物「アットゥㇱ」の素材になる、オヒョウという木の皮を剥ぎに行くために来た。二風谷民芸組合の職人やその家族に同行させてもらった。

 二風谷は、道内でもアイヌ文化が色濃く残る場所として知る人には知られている。その“色濃さ”の構成要素の一つが工芸だ。二風谷民芸組合では、何百年と培われてきた伝統、技術が継承されていて、アットゥㇱは柱の一つとなっている。個人的には、この樹皮から生まれるアットゥㇱには、アイヌの精神文化や自然への向き合い方がそのままパッケージされていると思っている。

 かつて、この地域のアイヌにとってアットゥㇱは、身の回りから素材を手に入れて生み出せる“生活の布”だった。木の繊維であることからもわかるようにとても強く、通気性と速乾性を持つ。江戸~明治時代の交易ルートだった北前船に乗り込んだアイヌや本州の船乗りたちが、アットゥㇱを仕事着にして日本海を行き交っていたことからもそのタフさがわかる。織られた樹皮布は衣服になり、同じ植物素材から編まれた紐や袋、かごなども生活や儀礼などの場面で幅広く使われた。地図のスケールを広げて世界を見渡してみると、植物繊維で織られた布を主な衣服としている文化の北限がアイヌだという。

 中でも、オヒョウから作られた布にはしなやかさがある。オヒョウはニレ科の落葉高木でアイヌ語では「アッニ」。「アッ」が「アットゥㇱ」を指し、「ニ」が木を指すので「アットゥㇱの木」を意味する。木の名前→その木から作られる加工品、ではなく織物→「それに使う木」というフローチャートなのが、いかにアットゥㇱが自分たちの生活に密接に関わっていたかを示唆させる。60年以上アットゥシを織り続けている現代の職人の第一人者・ユキコさんは「“自然”に触れている感じがいいの」とこの素材を好む。

 かなやま湖を過ぎ目的地が近づいてきた。南富良野町の道の駅南ふらので、約70人の大所帯が一度集合し注意事項などの確認をした上で、国有林に入っていく。道はすでに未舗装で、スマホの電波も怪しくなってきた。午前9時前、林道脇に車を停め作業を開始した。

 アイヌはかつて、立木のまま木の皮を剥いでいたという。剥ぐ前にはカムイノミ(カムイへのお祈り)を木の前で行い、皮を分けてもらうことや感謝を伝えてから、全面ではなく一面だけの皮を剥いだ。そうすることで木が死なずに、素材となる皮だけを分けてもらうことができた。現在では、効率面や、買い上げた木を採っていることも踏まえ、丸々1本を伐採し、その皮を採取している。

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 今回も、アイヌプリ(アイヌのやり方や習慣のことをこう言う)で立木のままいくらか剥がしてから、実際の作業に入った。高いものでは20mを超える木をチェンソーで倒し、その場で皮を剥いでいく。倒した木の根元にナタで幅20㎝前後の切り込みを入れ、皮の端を両手で掴み、木に足をかけ引っ張ると、梢の方まで意外なほどツルンと皮が剥け始める。とはいっても、全身を使って徐々に引き剥がしていくので、力は必要だ。この日の現地の気温は午前段階で15℃で、作業前はウインドブレーカーを着ていても肌寒いほどだったが、剥がした皮を一定量まとめ、山の斜面を登り運ぶだけで汗が噴き出てくる。

 林道脇の集約地に運ぶのは男手だ。この作業を繰り返し、皮を集める。地元の若手のタカヨシ君やリョウ君が一度に運ぶ量はゆうに2、30㎏はありそうだ。

 オヒョウの木の皮は水分を含んでいるためぬめりがあり、ずっしりと重い。皮剥ぎは毎年5月下旬から6月上旬にかけて行い1年分の素材を採るが、この時期であることも意味があることをマヤちゃんが教えてくれた。「雪解け水が木に行き渡っているんだよ。早く採っちゃうと皮に水分が足りなくて、うまく皮を剥がせない。逆にこの時期を過ぎると、葉に養分が取られるから、今」。かつてのやり方において、剥ぐ木の太さや樹齢は元々決まっていなかったが、ある程度成長していないと皮を剥いだ個体が死んでしまうのだそうだ。

 男性陣が集めた皮は、女性陣が中心になり、ナタで切り込みを入れながら一番外側の粗皮を落としていく。切り込みを入れたら手で粗皮を剥いでいくが、きれいに剥ぐには集中力とコツが必要だった。「皮のまとめ方は、外側に折り進めてなるべく皮同士の接地面を少なくして。カビ生えちゃうからね」と二風谷の職人の一人、マキさん。

 水分補給、作ってもらった玉子おにぎりによるエネルギー補給をしながら、午後2時過ぎに作業終了。今年は二風谷民芸組合全体で計50本分の木の皮を採取した。軽トラに積み込み、二風谷に戻る。明日は採ってきた皮を大釜で煮るという。

 この先の工程は、ユキコさんに密着させてもらった。「今回は総じて良かったんじゃないかい。(ユキコさんの孫で、一緒に織りをしている)ユキもそう言ってる。粗皮を剥いだ後のやつに、ポツポツと黒い点が入ってるのは使えないんだけど、それがそんなになかったみたい」。ユキコさんの家では、木の本数としては10本分ほどから採った皮を扱う。これが、1年分の織物の素材になる。

 皮を採取した時に粗皮を丁寧に剥いでいた理由は、煮る工程で粗皮があるとうまく熱が伝わらないためだ。約5時間煮続け、皮を柔らかくしていく。その後は2、3週間水につけ、ぬめりや余計な繊維質を取るために川に洗いに行く。表面のぬめりをしっかりとるために、フライ返しなどでごしごしとこそぎ落とす。それを干し、また水につけ戻す。何層にもミルフィーユ状に重なって1枚だった皮が、こうした工程を経て最小単位まで薄く剥がされていく(この工程を職人たちは「糸開き」と呼ぶ)。

 乾かし、細く割き、長い糸にするなら一本一本はた結びで結ぶ。撚り機で撚り、やっと糸が完成する。色を入れるものは糸開きをした段階で草木染めする。アカネ、クルミ、キハダ、ヨモギ、ツキミソウ、シコン、藍など様々な植物で色を入れる。その多くは近所の山々から採ったものだ。すぐに使わない分の皮は煮てぬめりを取った後に干して保管する。保管分を使う時はお湯につけ戻し、その後は同じ工程だ。アットゥㇱへの草木染めは「素材が自然そのものだから、色も自然のものを」とユキコさんが始めた。ユキコさんの工房や店には色鮮やかな皮やカタㇰ(糸玉)が並んでいる。

 そこからようやく、腰機(こしばた)での手織りが始まる。ユキコさんは「(アットゥㇱは)糸づくりが9割」という言葉で、その工程の長さを表現する。二風谷には滞在期間の長短を問わず、一地方の一集落とは思えないほどに本当に多種多様な人々が集まってくるが、こうした来客や様々なイベント、春の山菜採りや秋のキノコ採りといったものが、春~秋にかけての織る前の下準備に加わってくる。なので、ここでは冬が仕事に集中できる季節と言われている。

 膨大な手間と時間をかけて、高度な職人の技術を要する織りの工程に進んでいくが、それらの部分についてはユキコさんら職人に話を聞きながら改めてまとめたい。兎にも角にも、まるでアットゥㇱ織りのための糸を一本一本結びつなげていくように、二風谷では先人たちから受け取ったものを生業として途切らせずつないできたのだ。

 二風谷の人たちは、人のためによく働く。今回のオヒョウ剥ぎのみならず、自分の職務や職域にとどまらず、あらゆることへの手仕事や手作業のスキルをそれぞれが持っていて、東京で生まれ育った筆者は「都会で普通に暮らしているとこんなにも何もできないのか」といつも感じる。

 今回だけをみても、若い衆はご飯を食べさせてもらい、力仕事を代わりに担うというような、共助が当たり前のように行われている。目を向ければいつも誰かが誰かのために動いていて、それが呼吸をするレベルで自然に行われている。「働く」という言葉の意味が賃金/報酬を得る、ということだけじゃなかったことに気づかされる。都会にいるとこんな当たり前のことも忘れてしまうのかとハッとさせられる。貰ったらお返しをする。ずるい損得はいらないのだ。

 東京生まれ育ちというフィルターのせいにせずとも元来の性格なのだろうが、ユキコさんからはよく「サボってばっかりで全然働かないのがいる」と怒られしょっちゅう“出禁”の危機に晒されている。今回も、帰京直前に、天日干ししている皮をひっくり返す作業をしたことで、なんとか首の皮一枚つながった。

 筆者が二風谷からもらっているものはあまりに多く、これまでうまく言語化もできていなかった。それがどんな種類のものなのかカテゴライズもできていなかったが、もらっているのは愛だ。少しずつでも返していきたいとも思う。債務が膨らむ一方な気もするが。

 二風谷は人口約300人の小さな集落だが、工芸にとどまらずアイヌ文化がそこかしこに遍在している。アイヌ語教室が子供向けも大人向けも毎週開かれていて、アイヌ語のラジオも流れている。年中行事では儀礼の継承がされ、歌や舞踊が披露され、イナキビご飯や山菜など、地域性の強い食にありつけたりもする。伝統家屋のチセが立ち並び、その中ではユカㇻやウエペケㇾといった口承文芸が語られている。出前講座のような形で地域の学校へ職人たちが出向いたりもする。

 日高山脈に抱かれてそれらが空気のように普通に(文化を継承するために努力してくれている人たちがたくさんいるが)存在していて、二風谷に立ち息を吸うと、その文化の香りを吸い込めた気になる。

 今回、このHi-MAGで日高地方のことを書かせてもらう機会に恵まれた。やっとペンを握ることができた。二風谷という一風変わった、いやもっと変わっているので“二風変わった”小さな集落のこと、そこに住む人や集まってくる人びとのこと、アイヌ文化などを紹介していけたらと思う。

「となりの二風谷#2 ウレㇰレク」に続く

ライター/清水泰斗

1987年、東京の下町生まれ/育ち。ライター。日本中の工芸やニッチな特産品の取材、トラベルライティング、サウナや銭湯、エスニックタウン、アンダーグラウンドカルチャー、マタギ文化などにも食指。メディアも何もファストな時代ですが、ディティールを大切にする文章を書いていきたいです。日本語教師もしてます。

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